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2012.09.30

コメント

まえの

言語は論理の道具だと思うとそういう結論になるだろうけど、芸術の、ないしは感性の道具であって論理的である必要はない場合もあると解釈すれば「本当に」はありでは?

最近学生が、アンケートのスケールを作る際に、まったくない、ない、わからない、ある、とてもある、と書いていたので驚いたのを思い出しました。この場合は、おっしゃるとおり、論理の道具なので、(まったく)ない、ややない、どちらでもない、ややある、ある、だよね。

Miya

わわわ、前野先生、

感性の道具。なるほど。確かに。

度合いを表す方法は必要なのでしょう。そしてそれがcalibrationできれば、ある程度は、論理を裏付けるデータとしても使える。

でも「本当に」は、罪が重いと思うなぁ。スケールにすると、[本当にそう思う、ややそう思う、どちらでもない、あまりそうは思わない、全くの嘘]?!

誰かが何か言葉を発するたびに、それがこのスケールのどこに位置するかを計らないといけないとすると、その言葉の情報量はゼロに等しい。

まえの

本当に、おっしゃる通り。←情報量ゼロ!?

Miya

いえ、それは情報量あります。

でも「本当に」そう思うときに、*必ず*「本当にそう思う」という人が、ただ「そう思う」と言ったときはどうでしょう。本当にはそう思っていない確率が高い、ということになる。

そして「本当に」そう思うときに、「本当にそう思う」と、ただ「そう思う」の双方を使う人は(多くの人はそうかも)、ただ「そう思う」と言ったときにどちらか(本当にそうなのか、本当はそうでないのか)わからない。←情報量ゼロ。

まえの

ノンバーバルな情報(表情とか)やコンテキストとの関係も含めてその言葉をとらえると、やはりその言葉の情報量はゼロではないということになるのではないでしょうか? もちろん情報量が小さいとは言えるでしょうが。

そういう意味では情報量の理論は受け手の先験的知識が考慮されていないので不十分というべきではないだろうか。

Miya

言いたかったのは、言葉*自体*の情報量がゼロに等しくなる、とういことなんです。仰る通り、表情やしぐさ、声質、筆圧などから読み取れることはあるのですが、それらは、「言語外情報」と位置づけられるのではないでしょうか。実際には言葉が独立して存在する訳ではないですが、しかし、このディジタル時代、特に書き言葉において、言語外情報かなり少なくなっています。

コンテクストを共有している場合は、「情報量が少なくても」伝わる、ということが言えます。(ヴィクトルユーゴーの手紙。)

そして、ご指摘の通り、シャノンの情報理論では、「その情報が何を意味するか」とか「受け手が理解したか」、などは、全く捨象されているので、不十分と言われています。

クーンなどは、パラダイム(文化・背景)が違うと、最早お互いが理解し合うことは不可能(共約不可能性)と言っていますが、最近私はこれをひしひしと感じております。

解決策としては、やはり場を共有することですので、ワークショップとかフォーラムの必要性は間違いないのです。ただ私は、もう少し理論的に何とかならないものかと思ったりもする訳です。。。

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登録年月 06/2006

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