「語り得ぬものについては沈黙しなくてはならない。」これは前期ウィトゲンシュタイン(*1)の、切ない、しかし真摯な論理的帰結である。
言葉はあまりにも無力だ。例えば、感極まって、この気持ちを何とか伝えたい、という時に人間はどうするか。まず、絶句する。そして何とか口を開くと、「本当に」を連呼する。「本当にうれしいです。本当にみんなに感謝したい気持ちでいっぱいです。本当に、本当に、ありがとう。」これは自分でもそうだし、他の人もそうであることは観測的事実である。しかし冷静に考えると、「本当に」と言わないときの言葉は「本当」ではなかったのか、と突っ込まざるを得ない。「本当に」という言葉は、言葉全体への冒涜だ。「本当に」という言葉が存在していることが、言葉自体の信頼性を失墜させる。「正直なところ」とか、「まじ」とかも同罪。
言葉はものごとを正しく伝えられない。正しく伝えられる手段は、厳密には数式だけだ。図表などの情報や、音、発信者の目・態度、などは多少の助けにはなるが、完全とは言えない。言葉はあまりにも柔軟であるため、意図的かそうでないかに関わらず、うそ、誇張、誤前提、ごまかし、間違い、勘違い…などが入り込む余地を排除できない。さらに、仮に、発信者側でこれらを全てを排除できたとしても、今度は受信者側の問題がある。受信者が受け取るときに誤解、曲解が入り込む余地は、常にある。こう考えると、もう絶望的と言わざるを得ない。(*2)
それでも、私たちは言葉を使ってしか、ものごとを伝えることができない。だから私はできるだけ真摯に言葉を使いたいと思っている。
まず、なるべく「本当に」という言葉を使わない。あまりにも慣用句になってしまっているので、口をついて出てしまうこともあるが、メールなど書き言葉では、うっかり書いてしまった場合は消す。「本当に」だけでなく、「とても」とかいう強調のための言葉も不用意に使わないようにしなくてはならない。このような強調語は、強調しないときはそれほどでもないということになり、結果としてその言葉の価値を落とすことになるため。
それから、「○○は□□だ。」と述べるときは、できるだけその前提条件・境界条件を示すようにする。当然といえば当然なのだが(特に論文や公的なプレゼンの場などでは)、実際にやろうとすると、これがまた難しい。何せ会話の場合は反射性やスピードが要求される。いちいち前提条件・境界条件を述べてたら、まどろっこしくて仕方ないし、相手にとっても迷惑だろう。それで最近多用する(ようになってしまった)のが「スキ」とか「キライ」とかいう言葉である。「これは良い」とか「あれは間違っている」とか言う代わりに、「これ結構好き」とか「あれはあまりスキじゃない」と言う。「これは良い」というためには、その背後にある前提と境界条件を列挙しなくてはならない。しかも、自分では当然で「言うまでもない」と思っていることが、かならずしも自分以外にとってはそうとは言えない。。。こんなことを考えると、「これは良い」などとはとても言えない。しかし、「これは好き」というのは、全く本人の勝手であるし、あくまでも主観的であるということを認めている、という点で、潔い。
しかししかし、これではかなり変な人、というか、やなヤツだろうか。気づけば、「○○(適宜技術方式の名称を入れよ)は好きじゃないんだよねー。」とか「××(別の技術方式の名称を入れよ)は結構好きだ。」とか言っている。そのくせ、他の誰かが「○○は□□だ。」とか言うと、「え、"○○"ってどう定義してるの?」とか、「"□□"ってどういう前提?」などと突っ込む。これでは、前から私を知っている人だったらまだよいのかもしれないけれど(よくないか)、最近職場を変わったこともあり、多くの人から自己中でやなヤツと思われることだろう。
あああ、ムズカしい!
(*1) 後期ウィトゲンシュタインは、むしろ言語の生成的な側面に注目して行く。(「言語ゲーム」など)しかし前期ほどの明晰さはない。
(*2) 逆に、むしろこれを利用する人達もいる。マーケットにおけるBuzz Wordはまさにそれである。What a "BDM" (Buzzword Driven Market) !!
言語は論理の道具だと思うとそういう結論になるだろうけど、芸術の、ないしは感性の道具であって論理的である必要はない場合もあると解釈すれば「本当に」はありでは?
最近学生が、アンケートのスケールを作る際に、まったくない、ない、わからない、ある、とてもある、と書いていたので驚いたのを思い出しました。この場合は、おっしゃるとおり、論理の道具なので、(まったく)ない、ややない、どちらでもない、ややある、ある、だよね。
投稿情報: まえの | 2012.10.18 01:09
わわわ、前野先生、
感性の道具。なるほど。確かに。
度合いを表す方法は必要なのでしょう。そしてそれがcalibrationできれば、ある程度は、論理を裏付けるデータとしても使える。
でも「本当に」は、罪が重いと思うなぁ。スケールにすると、[本当にそう思う、ややそう思う、どちらでもない、あまりそうは思わない、全くの嘘]?!
誰かが何か言葉を発するたびに、それがこのスケールのどこに位置するかを計らないといけないとすると、その言葉の情報量はゼロに等しい。
投稿情報: Miya | 2012.10.18 23:10
本当に、おっしゃる通り。←情報量ゼロ!?
投稿情報: まえの | 2012.10.19 12:09
いえ、それは情報量あります。
でも「本当に」そう思うときに、*必ず*「本当にそう思う」という人が、ただ「そう思う」と言ったときはどうでしょう。本当にはそう思っていない確率が高い、ということになる。
そして「本当に」そう思うときに、「本当にそう思う」と、ただ「そう思う」の双方を使う人は(多くの人はそうかも)、ただ「そう思う」と言ったときにどちらか(本当にそうなのか、本当はそうでないのか)わからない。←情報量ゼロ。
投稿情報: Miya | 2012.10.19 23:56
ノンバーバルな情報(表情とか)やコンテキストとの関係も含めてその言葉をとらえると、やはりその言葉の情報量はゼロではないということになるのではないでしょうか? もちろん情報量が小さいとは言えるでしょうが。
そういう意味では情報量の理論は受け手の先験的知識が考慮されていないので不十分というべきではないだろうか。
投稿情報: まえの | 2012.10.22 12:34
言いたかったのは、言葉*自体*の情報量がゼロに等しくなる、とういことなんです。仰る通り、表情やしぐさ、声質、筆圧などから読み取れることはあるのですが、それらは、「言語外情報」と位置づけられるのではないでしょうか。実際には言葉が独立して存在する訳ではないですが、しかし、このディジタル時代、特に書き言葉において、言語外情報かなり少なくなっています。
コンテクストを共有している場合は、「情報量が少なくても」伝わる、ということが言えます。(ヴィクトルユーゴーの手紙。)
そして、ご指摘の通り、シャノンの情報理論では、「その情報が何を意味するか」とか「受け手が理解したか」、などは、全く捨象されているので、不十分と言われています。
クーンなどは、パラダイム(文化・背景)が違うと、最早お互いが理解し合うことは不可能(共約不可能性)と言っていますが、最近私はこれをひしひしと感じております。
解決策としては、やはり場を共有することですので、ワークショップとかフォーラムの必要性は間違いないのです。ただ私は、もう少し理論的に何とかならないものかと思ったりもする訳です。。。
投稿情報: Miya | 2012.10.22 21:40