前のエントリーで、「対立でもなく、「いいとこ取り」でもない、第三の調停手法が、これからのアーキテクティング手法の一つの重要な要素になると思う。」と書いた。
対立概念を調停する方法としては、まずは、つなひきのように両者のバランスや配分を探る方法、そして弁証法における正反合(二つの判断・立場を統合してより高い判断に至る)のようなものが考えられる。「いいとこ取り」というのは、ちょっと安易な感じを否めないものの、実現可能であれば、正反合の「合」に至るアウフヘーベンの一つと捉えられる。
しかしこれらは、二元論的な捉え方を出発点としているという点で、予め何らかの制約を課してしまっているのはないだろうか。
そこで、まず考えたのが、そもそもその二項対立に至る背景(権力、流行などによる構造)を発見し、それを脱構築することにより、新たな地平を拓く可能性である。(自分でも忘れていた程昔の話だが、この初期段階の考えは、2004年のInterOpにおけるJanog Special Sessionで発表させて戴いていた..。)
そして気づいたのは、二項が対立し、その両者には多大なる齟齬があるにも関わらず、二元論には還元すべきでない(またはできない)関係の存在である。例えば、心と身体、(光における)波と粒子、利他と利己、マクロとミクロ、など。拮抗したり、矛盾したり、決して同時には観測し得なかったりするのに、確かにそこにある、といったもの。物理学者ニールス・ボーアの言うところの「相補性」にも通じるかもしれない。
郡司ペギオ幸夫は、砂山のパラドクスを例に取り、このような関係に「内包(概念を全体として規定する属性)と外延(概念の具体的事例・対象)が同値でないことによるパラドクス」を見出し、「内包・外延の動的双対性」をモデル化する研究を行っている。郡司は「内包と外延の齟齬それ自体が両者を媒介し、その脆弱な境界をもってシステムを維持する」と言う。
SDN文脈におけるアーキテクチャ議論の一つである、「集中か分散か」は、まさに、この「二元論に還元すべきではない関係」に相当すると思う。あるシステムにおいて、内包=システム全体を規定する何か(理念とか、アルゴリズムとか)、外延=システムを構成する要素、とすると、「集中か分散か」は、そのシステムを全体を規定する何かが、専ら中央に集中しているか、各構成要素にもそれが存在するか、という議論になる。ここには対立も正反合もない。例えば、生物システムや組織などを考えると顕著である。一見大脳が集中制御しているように思える人間も、実は各神経がかなり自律的に作用しているし、優れた組織では、社長や役員だけでなく、組織を構成するメンバー一人一人が理念や文化を共有する。このように、動きを持つシステムに、内包か外延か、という問いは無意味である。それなのに二元論的に捉えるから、「集中がよいか分散がよいか」、「トップダウンとボトムアップ、どちらが優れているか」という議論が、時代を経て何度も繰り返されることになるのはないか。
郡司の言う「動的双対性」は難解だが、共感する部分が多い。私の考えるアーキテクティング手法と接続させ、検証してみたいと考えている。
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