トップレヴェルの演奏家は、具体的な奏法について語らない。音楽も当然物理的運動であり、例えば弦楽器であれば、音程、弓にかける圧力(重み)、弓のスピード、弾く位置などで音色が決まる。だから、一流の演奏家が、「この曲のこの部分は、このくらいの弓圧で、弓幅は何cmくらい使って、指板寄りを弾く」、とかいうことを語ってくれたらどんなにか参考になるだろう、と思い、機会があるたびに調べていたが、そのような言説に遭遇できたことは一度としてない。最近ではプロの演奏家も音大生も、ブログやSNSで文章を山ほど書いているのに、である。稀に奏法に関する分析的な言説を発見することがあるが、評論家やアマチュアのものが多い。(例外はあると思う。)
演奏家は忙しくてそんな暇はないのか、もしくは分析や言語化が苦手なのだろうか、などと考えたこともあったが、そうではなかった。演奏家は、自分の身体を使って、明示的な教師または内なるイメージに従い、環境との相互作用をしながら、高度な「内部モデル」を獲得してきており、その「内部モデル」により、状況を予測・感知し適切な音を出す。しかも、その内部モデルは小脳にある、ということなので、意識は(そのままでは)関与できない。演奏家が(そのままでは)奏法を言語化できないのは当然である。一方、文章にする・言語化できる、というのは、大脳で理解している、ということであり、逆にそれでは、分析することができても、(そのままでは)演奏をすることはできない。
「内部モデル」は、生体システムの外にある環境モデルを内在化する、という点で、マイケル・ポランニーの「暗黙知」に完全に符合する。ポランニーに拠れば、「知」とは知覚の形成であり、実践的な知識と理論的知識の暗黙的統合である(暗黙的統合とは、「それが何かを特定できないまま統合している」、というゲシュタルト理論に由来する)。小脳の「内部モデル」は、40年余を経て、ポランニーの「暗黙知」を実証したことになるのではないだろうか。
また、認知の形成という点で、「アフォーダンス」理論との相対化もしたくなる。通常生体システムは、探索、試行、練習、努力、といったフィードバック誤差学習の繰り返しにより「内部モデル」を獲得するが、アフォーダンスは、環境の側が、生体による「内部モデル」の獲得をし易くするための特徴を持つ、ということになるだろうか。ポランニーの文脈では、主体の「より高位への志向」「(対象に対する)コミットメント」が必要なのに対し、アフォーダンスは、未熟練な主体に対しても効用があるため、人工物のデザイン(思わず身を預たくなるソファ、思わず押したくなるボタンなど)には有用や概念なのだろう。そういえば、小学校で使われるピアニカという楽器はアフォーダンス度が高いかもしれない。
「トップレヴェルの演奏家はなぜ具体的な奏法について語らないか。」この最初の問いに対して、ポランニーの言葉を引用したいと思う。「包括的存在を構成する個々の諸要素を事細かに吟味すれば、個々の諸要素の意味は拭い取られ、包括的存在についての概念は破壊されてしまう。」(マイケル・ポランニー、高橋勇夫訳、「暗黙知の次元」ちくま学芸文庫)
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