先日高校の同窓会があった。最初はあまり気乗りしなかった。今は時間がないし懐古の気分ではないのに、共通の話題といったら昔話くらいしかないではないか。しかし行ってみると、昔話はあまりしなかった。高校という時代を共にした仲間は、懐かしく、親しく、気心が知れているのだが、一方で、友人のことなんて何ひとつわかっていなかったということに気づかされた。考えてみれば当然かもしれない。何を専攻し、何を職業とする、など、自己を確立して行くのは、多くの場合高校卒業後のことなのだ。(私なんて、学生時代は終始ぼーーっとしていて、物心ついたのはつい最近(?!)だし。)
一人の級友と話した。最近本を出版したと言う。「わぁ、すごいね。どんな本?」と訊いても、あまりはっきり答えてくれない。昔からあまり自己アピールする人ではなかった。そういうところは変わらない。でも、後からその小説を送ってくれた。
「月光川の魚研究会」。なんだかよくわからないタイトルだ。でも、カヴァーの写真がとてもきれい。実は、ここ暫く時間が取れそうにないので夏休みにでも読もうと思ったのだが、手に取ったらどんどん惹きこまれ、一気に最後まで読んでしまった。
「月光川の魚研究会」とは、バーの名前らしい。そこにくるお客と迎えるバーテンダーにより儚く切ないものがたりが語られる。どこか懐かしい感じのするリズムのある文章、息を飲むほどうつくしい写真、そして音とともに紡がれる。(書物なのに、ところどころに挿入される音楽が心憎いほど、印象的な演出をしている。)
ものがたりを紡ぐ。...何気ない日常も、悲しい事件も、ちょっとしたすれ違いも、上質の語り手にかかると、こんなにも切なく心を動かす。私はこんなにすてきに物語を書くことはできないけれど、でも、ある事象とある事象をつなぎ、意味や流れを持たせる、関係性の有無を吟味する、ということは、常に行っている。だから、土台となる教養やさまざまな視点、そして控えめかもしれないけれど確固たる芯を以って語られるものがたりに、深く感動する。人間はなぜものがたりを紡ぐのか。
たぶん、ものがたりを紡ぐということは、生きる、ということと、同じことなのではないだろうか。よく生きる、ということは、自分の紡ぐものがたりを少しでもよいものにする、ということと等価である。基礎的な学問を身につける、仕事で周囲や社会の役に立つ、楽器を修行して少しでもよい音を出す、家庭の責任も果たす、などは、偏に、ものがたりをよくするための奮闘、なのかもしれない。
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