インターネットは、冷戦時下、核戦争時に備えた指揮命令ネットワークの必要性から開発された。当時の唯一の公衆通信インフラであった電話網は音声に最適化されており、コンピュータ通信には効率的でない、冗長度が少なく脆弱、として、全く違うネットワークが求められたのだ。そして、1969年、高度に分散化されたパケットネットワークであるARPANETが稼動開始した。
この後、Bob KahnらがTCP/IPを開発し、各大学、研究機関のコンピュータがつながりはじめた。この「つながる」という感覚がどれだけ感動的だったかは想像に難くない。また、加入者数や呼量に応じて計画経済的に設備設計する電話網と異なり、完全な自律分散システムである。絶対的管理者がいない、中央集権でない、という構造は、リベラリズムの象徴とも捉えられる。
インターネットのprincipleとも言える、"End-to-end arguments in systems design"の著者であるD. Clarkの、"We reject Kings, presidents, and voting; we believe in rough consensus and running code."という言葉は、インターネットのリベラリズム精神をよく表しており、現在でも頻繁に引用される。
しかし、そのインターネットが今曲がり角に来ている。大きな二つの方向性のようなものが拮抗しているのだ。
一つの方向性は、セキュリティ・安全性強化、通信事業者の付加価値サーヴィス、Virtualization、というものだ。インターネットは最早、少数の意識の高い人で運営されていた、古き佳きインターネットではない。詐欺、迷惑、DoS攻撃がはびこる。それなら、ある程度closedにすることにより(例えば、希望する人が、有料で加入することにより)、安全性やサーヴィス品質の守られたネットワークを実現しよう、というものだ。携帯電話のi-mode等は、既にこのモデルでインターネットと関わっている、ということができる。
もう一つの方向性は、「通信事業者は"Net Neutrality"(ネットの中立性)を保障すべき」、というものだ。通信事業者が、Traffic ManagementやControlを行うことができる立場を利用して、垂直統合サーヴィスを推進したり、トラフィックの扱いを差別化すると、ネットの中立性を阻害し、ひいては、新しい技術やビジネスモデルのInnovationを阻害することになる、という議論である。
ただ、この2つの方向性の拮抗は、多少誇張されているところがあるように思える。実際、トラフィックの扱いを差別化すると明言している通信事業者は(少なくとも今のところは)無い訳だし、そもそも何を以って中立・公平とするかが十分に議論されていない状態で、議論だけが先行し、既存通信事業者 vs 新規ビジネスモデル(google, skype, etc.)対立の構図を徒にあおるのは、あまり意味がない。
それよりも、今必要なのは、インフラを支える通信事業者、googleに代表される新たなビジネス形態、そして何よりもユーザ、といったすべてのstakeholderが、よい形で決着できるような均衡点を見出すことではないか。
来週はInterop 2006だ。6月7日(水)のJanog Special Sessionでこの辺のことにも少し触れます(宣伝モード:)。
Interop 2006 Janog Special Session 「ユーザの動向から考えるISPのトラフィックマネージメント」
http://internet.watch.impress.co.jp/cda/event/2006/06/09/12273.html
投稿情報: | 2006.06.14 16:22