正門憲也作曲「管弦楽のための舟歌」を演奏することになった。(東京文化会館の50周年記念イヴェント。)都民響にとっては、60周年記念委嘱初演に続き再び、私にとっては、2009年に演奏した「弦楽のための舟歌第一番」に続き再び、である。「弦楽のための~」は山形県最上川舟歌を題材にしているが、「管弦楽のための~」は、日本最古の運河、埼玉県見沼通船堀の舟歌だそうだ。前者は光と水しぶきの描写がフランス音楽のようだったが、後者の方はもう少し日本的かな。雅楽のような響き。
同時代の音楽を演奏する、ということについては、多くの複雑な問題が(感情的なものまでも含めて)入り乱れる。(1)耳が馴れていないという問題、2)時の試練を経ていない問題、3)妬み・嫉み・やっかみ、4)その他もろもろ...)しかし、作曲家と演奏家の間に信頼関係があれば、即ち、作曲家が演奏家のことを想い、演奏家が作曲家に対して限りない尊敬と信頼を寄せるような場合は、その音を紡ぐことがこの上ない幸せになる。
正門先生の音楽的才覚と、脳内にある曲のイメージを、そのままコピーできたらどんなにかよいだろう、と思う。しかしそれはできないので、書き下ろされた譜面と指揮、そして若干の言葉による補足(蛇足?)を頼りに音楽をつくる。しかし、相変わらずの正門節。そしてリズム地獄。
リズム地獄には、変拍子(小節のたびに拍数が異なるためものすごい集中力が必要)、シンコペーション(本来弱拍の位置に強拍が来るため、気合をいれないと、譜面の拍子と実際の感覚に乖離が生じてくる)等いろいろあるが、それらはまだ全然よい方である。正門先生の作品には、譜面面は然程複雑でないのにリズム割りが各パートで異なる、というポリリズムが多用されており、これが非常に厄介。しかも特に合奏初期の状態では、他パートが正しいかどうかもわからないため、音をどこにどう入れればよいか、まったく渾沌としてしまう。2×3=1.5×4(6拍子を二分音符3つでカウントしているところに付点四分を4つ入れる)、2x3x2=4x3(同6拍子の小節2連を大きな3拍子のヘミオラで。)いやこう書くとシンプルだが、実際は、さらにその1拍が3連、5連、6連や、3:1(いわゆる"タッカ"のリズム)などになっており、かつ拍の頭が休符だったりするので、ついて行くのが難儀である。ぐげー。先生は、「ここは多少ずれてもよい」、とか仰るが、一度ずれてない状態がどういう状態かを理解しないことには、どのくらいずれててよいのかもわからない。先生は頭に描いた音が出なくて、さぞもどかしいことだろう。同時に、渾沌を愉しんでいるようにも見える。とにもかくにも、作曲家とともに音を紡ぐことは、一期一会である。そして出てくる響きは、目前のリズム地獄とは別次元ののもの。美しい(うまくいけば)。
今回は、さらにアンコールとして、20年前の若かりし日の作品という「小組曲」から一楽章「直線的な踊り」も演奏する。(ネタバレか..、しかし読者数が限られているので大丈夫でしょう....。)こちらは、正門節全開の舟歌に比べると、習作的なところがあるだろうか。バルトーク、伊福部、キラールなどが想起される。しかし、すごくかっこいい。響きも圧巻。私には、「火の鳥(ストラヴィンスキー)」の凶悪な魔王の踊りとオーヴァラップして聴こえて仕方ない。夢にまで出てきて、まいった。
もしかすると、弦楽版と、管弦楽版の両方の正門舟歌を弾いたのは私が最初かもしれない。これは後世に自慢できるかな?いろいろな場所で先生のご指導を受けることができたため、脳内コピーはできないものの、コンテクストの共有度が高まり、大体言われることはすごくよくわかるようになった。後はできるだけよい演奏で再現したい。11月6日、13:00から、東京文化会館大ホール。もしよろしければいらしてください。なお、前プロはハイドンの94番交響曲「びっくり」。「清冽さ」が両者の共通点だが、構成の多様性は対極にある。多様性の高い構成は、まとまりにくいが、擾乱や不確定な事故に対しては耐性が強い、ということもよくわかる。:)
P.S.1 脳内コピー、近い将来*ある程度は*できるようになるのではないか、と考えている。(真剣に。仕事モード。)
P.S.2 なお、この後も11月19日(土)には奥多摩の水と緑のふれあい館におけるコンサート(弦楽5重奏+Ob: チラシ(高校生になる娘が作ってくれた))、12月10日(土)の特別演奏会、と本番が続きます。師匠からの厳しい課題もいくつか。さらわなくては。
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