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2008.06.16

コメント

まこまこ

MIYAさんご無沙汰しております。

「僕の言う事は必ず嘘です。」の真偽のようないわゆる言葉上のパラドックスとはまた違った事を言われようとしているのですよね。

きっと事実の内容はそれを見るものの立場の違いによって異なってくる可能性があるという事によると僕は考えます。
AとBとCという個々の事象が連なってDという事実を構成する場合、CがBを懐疑的に見た場合に発生する認識とAがBを懐疑的に見た場合に発生する認識は異なっている可能性があり、また、CがBを懐疑的に見た前提で自らCを見た場合はそれはC’というCではない物から見た認識になるので自己否定しているように一見見えてもその自己を見ている自己自体が変わっているからそれは矛盾ではない可能性が高いかと思います。そうしたみる主体によって認識の変化する個々の事象の集合体である事実Dというのは常にうごめいているわけではなく、AでもBでもCでもDでもないその外のEという例えば僕が見た上では常に同じ変化しない物であると考えられるという事に言い換えられませんかね?

Miya

まこまこさん、こんばんは。

一段メタ化してみる、ということかな。確かにそれは一理あります。

ただ、懐疑することは、自分の認識如何に拘わらず、普遍的なもの、絶対的なものを否定し、自分の考えを始め全てのものを疑ってかかる、ということなので、そうすると何も言えなくなるんですよね....。

まこまこ

MIYAさん、
その疑うは、不確定性原理でいう所の確からしいというニュアンスではなく、演繹と帰納の方向性という事でもなく、ほんとうに否定に近い感じですか?

まこまこより

Miya

認識しているのが自分である限り、完全に客観的にはなり得ない。自己言及問題は証明も反証もできない(by Goedel)。。。と身も蓋もない感じですが、まずは徹底的に懐疑した上で見えてくるものもあるかもしれない。

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登録年月 06/2006

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