高校での必修科目不履修のことがあちこちで問題になり、まじめにやった人が損だとか、教育指導要綱が現場の実態に即していないなどという批判も出ているようだが、何か根本的なところで履き違えているように思える。
競争に勝つことによって、その社会において「優秀と目される人」が出てくる。この是非は、今はひとまずおいておくとして、問題は、その基準が、試験で良い点を取る、とか、良い大学に合格する、とか、わりと平面的で画一的なことと、もっと問題なのは、その過程に、最適化や効率性を求めてしまうことだ。
最適化や効率性は、目的が明確な時に、その目的を最少の資源・労力で達成し、最大の効用・利得を得るために必要となる概念である。しかし、人格・知力形成過程の教育現場にまで、最適化や効率性は極力持ち込みたくない。教育の目的は、学びの姿勢とか、考え方、思考の幅や角度といった漠然としたものを身につけることだ。
神奈川県では、ゆとり教育のおかげ(?)で、今は、県立高校にも受験には複数のクライテリアがあるらしい。前期受験組は、偏差値一辺倒でなく、総合的なもの(日頃の成績、クラブや委員会活動状況、面接)で判断される。一方後期受験組は入試の一発勝負、ということになっているそうだ。どちらを受けるかは個人の選択で、これはこれでよいのかもしれないが、問題はこれに最適化させようとすると、茶番的なことが起こる。すなわち、前期狙いの子には、はきはきと発言させて内申の点を上げさせ、積極的に発表・課外活動をさせるように指導し、さらに、面接対策の模擬面接を何度も行う。後期狙いの子には、塾で模擬試験漬けにする。
「偏差値主義」も、「ゆとり教育」も、それ自体がさほど大きな問題ではなく(問題が無いとは言わないが)、それに最適化しようとし、さらにそこに効率を求めるから問題なのだ。しかし実際問題、これを回避する方法は難しい。漠然としたものは評価しにくいし、評価しやすいメトリックは効率的に達成されやすい。でも、長い目で見れば、与えられたメトリックに対する要領のよさ、効率を身につけた学生が、優秀と目されるようになり、さらには、優秀と目された人間がリーダーになるとすると、社会に対しても弊害があるのではないか。
アリストテレスの「学問に王道なし」という言葉というのはけだし至言だった、ということなのだろう。よく使われている言葉だが、ただこつこつと地道に勉強することを説いている訳では無いと思う。紀元前に、学問に効率を求める風潮があったのかどうかはわからないけれども。
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