この頃、時々公開マスタークラスを聴講する。2005年10月にはジャン=ギアン ケラス、2006年11月にスティーヴン イッサーリス、そして2007年10月には、ルイス クラレットによるマスタークラスを聴講する機会を得た。
公開レッスン自体が自分自身の演奏に直接役立つか、というと、必ずしもそうではない。レッスンは、師の個性と受け手の個性、およびそれぞれのその時の状態に依存する、極めてlocalかつprivateなもの、という側面がある。芸事は、守→破→離→守...をサイクリックに繰り返しながら高みに登って行くので、個人がその時にどのフェーズにいるかによって、指摘することのヴェクトルが全く異なるということもあり得る。それに、守るべき基本はあれど、唯一絶対の奏法というものはない。
だから、一般的には、個々の指導やコメントは鵜呑みにせず、十分斟酌する必要がある。しかし、しかし、である。名チェリストというのは(チェリストだけではないかもしれないけれど)、何という哲学者・求道者だろうかと心底思う。時々はっとするような金言が飛び出す。
ルイス クラレットは、「習慣から脱却(move habit)することが必要。その習慣の良し悪しに関わらず」と言った。どんなにきれいな音が出せたとしても、それが習慣化してしまってはいけない、というのだ。勿論、きれいな音を出せることはよいのだが、それが「習慣」となると、いちいち意識しない、考えない、ということになり得る。この、「意識しない」、「考えない」で音を出すことを戒めているのだ。常に、その時の状況や、新しい考え方、新しい発見を取り入れ、数ある選択肢の中から、意識して、その音の出し方を選び取った上で、音を出す。これは結構厳しい要求である。でも、音楽だけでなく、様々なことにあてはまるのではないか。
イッサーリスは、幾度となく「チェロを弾かないで(don't play cello)」と言った。チェロを弾くこと自体が目的になってしまってはならない、ということだ。何かを表現する、流れをつくる、響きをつくる、ということのために、チェロという楽器を使っているに過ぎない。楽器は媒体であり、弓に魂を込める。
そして、ジャン=ギアン ケラス(何を隠そう大ファンである。この時はチェロケースにサインして貰い、しばらくボーッとしてました)は、「(音を)外してしまう自分も受け入れよう」と言った。難所のパッセージがなかなか上手く行かない時、外す→情けない→自分を責める→身体が萎縮し固くなる...、というスパイラルに陥りがちである。そんなとき、何が悪いかを考えるのでもなく、反省するのでもなく、失敗を排除しようとするのではなく、まずは「失敗してしまう自分を受け入れよう」、というのだ。ああ、何という包摂。ケラスの奏でるチェロは、飾らず、気負わず、本当に自然体の音がする。彼の哲学の現れなのだろう。
うーむ、深いコメント。
投稿情報: tarui | 2007.10.31 00:32
私がクラシックを現役でやっているころに、渡辺浦人先生という方に指導いただいたことがありました。
既に体が大変悪く、お付の方に抱えられての指導だったと思います。当時わたしは高校1年くらいだったでしょうか。
ご存知の方もいないかもしれませんが、日本のクラシック音楽に大変貢献された方で古楽器に造詣が深く、クラシックギター合奏の世界では有馬礼子先生とならんで私が尊敬していた方です。
師いわく、
「恥ずかしい気持ちを持ちながら音楽をやってはいけない。アコーギクとデュナーミクを大げさにやることに慣れることが音楽を楽しむコツ」
といわれたのを覚えています。
そういえば私はミスると「まずい、って顔をするのが最悪」とよく先輩に言われてました。
とりとめもないですが、なかなか楽器とくにクラシックをやるひともいないので 思わず書いてしまいました。
投稿情報: にしかずと | 2007.10.31 00:50