今の先生についてもう6-7年になるだろうか。下の子がまだ赤ん坊の頃だ。子供が生まれてからは、とにかくチェロを弾く余裕なんて全くなくて、オーケストラも、室内楽も、一切やめていた。一年に一度もチェロケースを開けない、なんて時もあった。これでもう弾かなくなってしまうのか、と思い始めていた頃、いや細々とでもよいから続けた方がよい、と一念発起して師事した。どうせなら一からやり直すつもりで。
レッスンのペースは、一か月に一回を何とか維持するのが精一杯であるが、基礎を叩き直すのにはよい機会だ。ソロで弾くのは、裸の自分を見せるのと一緒で、一切ごまかしがきかない。テクニックはおろか、何を考えているかまでわかってしまう。ほんとうに細々とではあるが、継続は力なり、と思ってやってきた。
しかし、先日とうとう師匠と衝突してしまった。私には弾きたい曲が山ほどある。特に、ロマン派以降の、内面の表現の要求が高まって、それまでの予定調和や秩序を破らざるを得ない、といったような切ない音楽にとても惹かれる。ブラームス、シューマン、エルガー、ドホナーニ、リゲティ...。それに、フランス物やロシア物もやりたい。ああ、それなのに、それなのに、やりたい曲は決してやらせて貰えない。「コンチェルトならまずバロック、古典をこなしていないとだめ。全部とは言わないが、エチュードコンチェルトもやっておかないといけない。その次にサンサーンスとラロ。物事には順番というものがある。」
平素のレッスンでも、一つのエチュードを終えるのに5、6回かかったりするので、一か月に一回のペースだと、一年にエチュードが2曲しか進まない計算だ。弓先で音がやせない、とか、移弦やシフティングで音が切れない、とか、指を軽妙に使った弓のコントロール、とか、ハイポジションの正確さとか、そういう細かいことを徹底的にやらないといけないのだが、現在取組んでいるエチュードは、和声や構成も、要求されるテクニックも一見非常にシンプルなので、一回さらってしまうと、どうも気が乗らない。ついついいい加減になってその後の深堀をしなくなる。それでいつまでたっても先に進まない。
これでは、生きているうちに、弾きたい曲は弾けないではないか。もっとモチヴェーションを駆り立てるようなエチュードや曲をやらせて戴けないものだろうか。弾きたい曲が弾けなくてチェロを弾く意味があるのだろうか。今のままではさらう意欲が湧かない。さらう意欲ががなければ進歩もない。大体さらう時間を捻出するのだってすごい大変なのだ。...今まで溜まっていたものも何だかこみあげてきてしまって、もう恥も外聞もなく、半泣きで訴えた。
「でもあなたはチェロの勉強をしに来ているんでしょう。曲の選り好みをする立場ではない。曲の選り好みをするなんて、それではアマチュアではないか。」
....いや、私アマチュアなんですけれども...、ってそういうことではない。確かに、勉強する、ということに妥協はない。プロもアマチュアもなく、求道であり修行である。そして先生は、私のような者にでも、一切妥協せずに対峙して下さっている。私はチェロの修行などといいながらも、実は修行ではなく道楽をしようとしていたのか。高みを目指すのであれば、これまでの甘い考え方を立て直さなくてはならない。
正直言って苦しい。でもこれが現実だ。
いつか必ず、シューマンのコンチェルトを立派に弾けるようになることを目標に、基礎を積み重ねて行こう。次に貰える曲はたぶんエチュードコンチェルト、またはハイドンの一番だろうか。いずれにせよ、心を入れ替えて頑張ってみる。
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