インターネットの理念の真髄は、たぶんその逆説的でリベラルなところにある。
逆説的な例。
- End-to-End、網はビットを愚直に運べ。 <愚直の方がIntelligenceを育む。>
- Best effort, No guarantee。 <保証しないことにより障害耐性が大きくなる。>
そしてリベラルな例。
"We reject kings, presidents and voting. We believe in rough consensus and running code. " (我々は、君主、長、そして多数決も拒絶する。大まかな合意と動いているコードを信じるのみ。) -- David Clark
"Internet is for everyone - but it won't be if Government restrict access to it, so we must dedicate ourselves to keeping the network unrestricted, unfettered and unregulated. We must have the freedom to speak and the freedom to hear. (インターネットはみんなのもの。だから政府がアクセスを制限するようなことがあってはならない。我々は、ネットワークが制限も拘束も規制も受けないように努力しないとならない。..) -- Vint Ceff/rfc3271
しかししかし。現実はそうは言っていられなくなってきた。専門家でない一般ユーザが圧倒的多数を占め、セキュリティ脅威や迷惑メールが社会問題になっている。インフラとしての信頼性などということが問われ、国家政府も介入する。
そのため、ネットワークの運用は、当初の逆説的(反体制的?!)リベラリズムから、ここ最近、大きく管理・制御の方向に舵をきったと思う。これは程度の多少はあれ、世界的な潮流のようだ。(日本は元々リベラリズムが根付いていなかったが、西欧ではそんなことはないのでは、と思うかもしれないが、とんでもない。背景も意味合いも違うのでリベラリズムという言葉の使用自体が適切でないが、彼らは、管理・制御が必要と判断すればどんどんやる。その点日本の方がナイーヴなくらいである。)実際、現在インターネットのトランスポートを運用・提供しているのは、殆どが伝統的な電話会社であるので、管理・制御の方向に向かうのはある程度自然なのかもれしれない。
しかし、管理・制御する、ということは、迷惑や危険からユーザや社会を「守る」方向であり、全く新しい使い方を生み出す、とか、試行錯誤や実験をさせてみる、といった「育む」方向ではない。安全を担保するのは勿論重要なことであるが、一方、革新、進化が起こりにくくなる、という面は否めない。エライ人はよく「いいとこ取りすればよい」と仰いますが、そんなに簡単ではない。
...とかいうことを考えていたら、IIJの浅羽さんがかねてからの構想の実現に向けて動き出した。IIJ Innovation Institute。そうだった。日本には、IIJという、インターネットの理念の大いなる擁護・具現者があった。創立15周年を迎え、次のインターネットの発展に寄与するような、新しい技術ベンチャーのインキュベーションを行うとのことだ。
インターネットは、その自律分散性、フラクタル性により、発展というよりは生物的に進化するようなので、もしもどんなに今が行き詰ったとしても、世代交代という方法がある。ゆずりはのような。だから、後世を育むことは非常に重要なのだと思う。
新たなアーキテクチャ可能性(Mobility, Gridや、その他もっととてつもないこと)を、現在のインフラの上に作ってみる、とかいうことが、より現実味を帯びてくるかもしれない。
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