「知ってない問題」とは、「知ってる?」の否定応答が、なぜ「知ってない」ではなくて「知らない」になるのでしょう、という問題。依然としてすっきりしないままでいる。
英語(know)やフランス語(savoir)では、このような非対称は無い、と、前のエントリーには書いた。しかし、それら言語では、状態を表す動詞(have, love, liveなど)と、行為(go, play, takeなど)を表す動詞が、同じ一般動詞として存在しているため、「○○ている」というように、状態を表す時に語尾を変化させる日本語とは異なり、同列に比較はできない。「知識を得るだけでは知ったことにはならないのではないか。」というのは、仮説としては悪くないとは思うが、ちょっと無理があるかもしれない。
日本語では、状態を表す時には、「○○ている」になるので、「知っている」状態を否定するのは、普通に考えたら、やはり「知っていない」が自然であろう。実際、言葉を覚え始めたばかりの子供はこう答える。しかし大人は「知らない」と言う。この質問と応答の非対称性は、単なる偶発的なものではなく、やはり「知る」ということが特別であることを示しているのではないか。従って、この点に関しては、前のエントリーでの仮説(↓)はあながち外れていないように思える。
「xxを知っている?」と質問された人は、質問されたという事実により、そのことに関する知識を得てしまった、ということになる。そのため、常識を持った 大人であれば、質問を受けた途端、そのことについて「知っていない」とはパラドクスになり、そうは言えなくなってしまうのではないか。だから、「そのこと は過去も知らなかったし、こんな風に質問されなければ、これからもたぶん知らなかっただろう」という意味をこめて、「知らない」と答えるのではないだろう か。
しかし勿論、根拠にも確信にも欠ける。
......という訳で、悶々としていたところ、養老孟司先生の著作に、やはり「知る」ということの特別さを記述した文章を発見。
「知ることの深層」
知ることとは、どういうことか。(中略)
一般的に、知ることというのは、知識を増やすことと考えられています。しかしもちろんそうではありません。私はよく学生に、自分が癌の告知をされたときのことを考えてみなさいといいます。「あなた癌ですよ」といわれるのも、本人にしてみれば「知る」ことです。「あなた癌ですよ。せいぜいもって半年です」といわれたときにどうか。知るということを考えるとはそういうことです。
あと半年と宣告されて、それを納得した瞬間から、自分が変わります。ですから、知ることというのは、じつは自分が変わることだと私は思うわけです。- 「知」の毒 自分は死なないと思っている人へ 大和書房 より
やっぱり。我意を得たり、という気がする。知ることは、単に知識を増やすことではない。知る前と知った後で自分が変わるということもあり得るのだ。勿論、「知ってない」問題への十分な根拠や確信にはなる訳ではないけれども、「知る」ということは、やはり特別で重大なことなのだと思う。
こないだのテストに出た「知ってない問題」は*知ってない*と解けなかった、
というように限定的に使われますね、「知ってない」は。
知ってるは"know"で、知るは"get to know"ですが、「知っとうや?」は前者について尋ねているわけですから、「知ってない」と答えるべきです。
ところが上の例のように「知ってない」が「ある時点における状態」を表す語として
必要であるために本来の"don't know"の意味で使えなくなってしまったのです。
一方、「知らない」という語が"get to know"を否定する表現であると勘違いされるケースは非常に稀なので「知らない」を"don't know"の意味で使おうよ、ということになった経緯があります。
とはいっても稀に「知らない」や「知りません」という表現が相手に失礼と感じるケースがあり「存じません」という新語が誕生しました。
-知ったかぶり-
投稿情報: ckcs | 2008.12.16 17:36
> ところが上の例のように「知ってない」が「ある時点における状態」を表す語として必要であるために本来の"don't know"の意味で使えなくなってしまったのです。
でもでも、「知ってる?」というのはそもそも、その時点における状態を聞いている訳ですよね。普通に考えたら、「知ってないと解けなかった」という場合と、特に区別する必要はないような気もします。
> 一方、「知らない」という語が"get to know"を否定する表現であると勘違いされるケースは非常に稀なので「知らない」を"don't know"の意味で使おうよ、ということになった経緯があります。
私は、「勘違いされない」という消極的理由ではなく、むしろ、敢えて「知る(get to know)」の否定の意をこめて、「知らない」と答えるのではないか、と思うのです。なぜか。「知る」という行為が、人にとって特別の意味があるから。その人がその人で無くなってしまうほどのインパクトがあるから。...うーん、ちょっとこじつけてる?
投稿情報: Miya | 2008.12.16 22:51
Miyaさんの主張は「知っているか」の問いに「知ることはない」と、知るという動作/行為を否定する回答をするのはintentionallyである、ということですね。
でもMiyaさんに「知ってますか?」と聞いた時に「知ることはない≒知るつもりもない≒知ったこっちゃない」といちいち返されたら、会話をするのが怖くなってしまいそうです (^^;
もちろんそんなことはないとは思いますが... ではひとつの史実を紹介します。
鎌倉時代の将軍、知照供は博識で知られていましたが、実子である知欄鴨が「知っていません」をたびたび口にすることに不満を抱いていました。そこで知照供は言語学会に「知っていない」禁止令を出し、それを「知らない」という言葉に置き換えさせたのです。
その言葉は瞬く間に浸透し、「知らない」という言葉が従来の「知っていない」の意で用いられるようになりました。ところが知欄鴨はのちに「ほんとは知ってない将軍」と揶揄されるようになりましたとさ。
「分かってる?」「分からん」も似ていますね。日本語は分からないことだらけです。
日本語の変化でずっと気になっていることのひとつに「過去形」があります。店員が客に対して「~でよろしかったでしょうか?」というアレです。
すぐにピンと来たのは、英語では丁寧語に過去形を使う、ということです。店員の過去形は実は外国人労働者が広めたのではないでしょうか? 確かにコンビニの外国人店員は増えました。
もっとも彼ら/彼女らの多くは英語圏ではないようにも思えますが。
すみません、話が逸れてしまいました。
-ホントは知らんかも-
投稿情報: ckcs | 2008.12.18 00:10
ckcsさま、非常に興味深いコメントありがとうございます!
> Miyaさんの主張は「知っているか」の問いに「知ることはない」と、知るという動作/行為を否定する回答をするのはintentionallyである、ということですね。
えと、今がそうであるということではなく、このような慣用がされ始めたころはintentionallyだったのではないか、と推測します。(勿論仮説に過ぎませんが。)特に、平安・鎌倉時代あたりは、びっくりする程物事の本質を捉えているので。諸行無常とか。
> 鎌倉時代の将軍、知照供は博識で知られていましたが、実子である知欄鴨が「知っていません」をたびたび口にすることに不満を抱いていました。そこで知照供は言語学会に「知っていない」禁止令を出し、それを「知らない」という言葉に置き換えさせたのです。
これ知りませんでした!非常に興味があります。なぜ「知っていません」が不満だったのでしょうか。もしできましたら、参照元等教えて戴けないでしょうか。
> 「分かってる?」「分からん」も似ていますね。日本語は分からないことだらけです。
これは、普通にはやはり「わかる?」「わからない」、「わかってる?」「わかってない」ではないでしょうか。「わかってる?」に対して「わからん」というのは、ちょっと意図的に投げやりなニュアンスを感じます。
> 日本語の変化でずっと気になっていることのひとつに「過去形」があります。店員が客に対して「~でよろしかったでしょうか?」というアレです。すぐにピンと来たのは、英語では丁寧語に過去形を使う、ということです。
はい。これは過去形にすることによる婉曲、丁寧だと思います。勿論、闇雲に過去形にすりゃいいってものではないのですけれど。過去形にしたり、比較的長くまどろっこしい言い回しを使って、婉曲・丁寧を表す、というのは、英語圏だけでなく、ほぼ万国共通のようです。
投稿情報: Miya | 2008.12.18 01:29
これは作り話でした 。
すみませんでした ペコリ(o_ _)o))
過去形で丁寧表現をするのが万国共通だとは知りませんでした。
すると「よろしかったでしょうか?」に違和感を持つのは自分だけだったのかしらん。
投稿情報: ckcs | 2008.12.18 15:20