評論家というのはどうも好きではない。
新聞の夕刊にはよく演奏会評が載っていて、ついつい読んでしまうが、辛口批評を見ると、そんなによーくわかっているんだったらご自分で弾いてみたら、と思ってしまう。勿論、評論家が演奏家の賞賛や応援ばかりしている訳にはいかないし、それでは評論の意味が無い。しかし、イマジネーションを具体的な音に射影
し、その「欲しい音」を紡ぎ出すための飽くなき研鑽に比べたら、後からどうこう言うのは簡単でしょう、と思ってしまう。
経済評論家もそう。既に起こったことに対し、後知恵で尤もらしい理屈をつけることについて、意味がないとは言わない。しかし、リスク承知で困難なことに挑戦する人々に比べたら、一体どれだけの価値があるのでしょう。それなら、後知恵でなく予測すればよいのか、というと、その予測が的を射ていなければ大勢に影響ないし、もしも的を射ている場合はそのこと自体がシステムの挙動に組み込まれることになるので、どのみち予測にはならない。
しかししかし、ふと我が身を振り返ってみると、自分の仕事が何だか評論家っぽくなっていないだろうか。現在実際にコードを書いている訳でもなく、製品を使って実際にサーヴィスを提供している訳ではない。製品開発に間接的に携わっているものの、自分が手を下していないのに批判してしまうようなことがある。自分があんなに嫌っていたことを自分でやっているのではないか?!
でも自分の今の適性を考えると、コーダに戻ってもあまり生産性が上がらないだろう。せめて、開発者と話すときは開発者の土俵に立って、サーヴィス提供者と話すときはサーヴィス提供者の立場に立つようにしよう。後知恵ではなく、常に自ら考えて結果を謙虚にフィードバックしよう。常に修行僧の気持ちでいよう。新たな視点を探してみよう。問題を発見して面白がるだけでなく、解決方法を考えよう。
ところで、余談だが、実は評論家よりもさらにキライな人種がいる。...それは政治家。
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