ルータエンジニアとして、そして、インターネットコミュニティの一員として、「インターネットのこれから」を考えることは、いつの間にか私のライフワークになっている。で、最近は、少し哲学を勉強中。
その昔、少しだけ哲学少女だったことがあった。すぐに挫折したけれども。その後幾年月を経て、結局、倫理学(非帰結論的)はニーチェで終焉し、論理学はウィトゲンシュタインとゲーデルで終焉し、哲学は脱構築・ポストモダンで終焉した、と思っている。「絶対的な価値基準は無い。」「語りえぬものについては沈黙せねばならない。」「世界を記述できる一つの理論は無い。」理論としてはましに見える社会主義が終焉したことも、ある一つの理論により設計・計画されているシステムよりも、自由度が高くゆるやかなシステムの方が、複雑な世界に適応する能力が高い、ということを例証している。
ではなぜ今哲学か。まず、哲学者たちが必死に思索し記述してきた、根源的なものに対する視点と考え方は、思考のフレームワークとして極めて強力であり、それらを理解し内包することができれば、少しは「巨人の肩の上に乗る」ことができるのではないか。また、現在の問題意識は、やはり根幹まで戻らないと解けないような気がしているからである。
インターネットは、対象やステークホルダが複雑に絡み合い、かつ、常に変化しているので、予め「こうあるべき」という姿を定義することはほぼ不可能である。そして、その目的も、いつからかは自己目的化している。そのインターネットのこれからを考える、というのはどういうことなのか。対象が多様で巨大、かつ、自己(主体)と対象(客体)を明確に分けることができないような場合、自己とは一体何か、どのようにモデル化すればよいのだろうか。-これは、これまで哲学が散々やってきたことである。
哲学は終わっているかもしれないが、それでも、社会は廻っているし、インターネットは動いている。これはすごいことで、私はここに希望を持つ。新たなシステム論や科学哲学のようなものを整理し提示することによって、これからの方向性を考える助けにならないかと思っている。勿論、「思考のフレームワーク」なんて虫がよくて、単に底知れない深淵に沈むだけかもしれないが。
「哲学は終わったが、しかし、遍在している。」(ジャック・デリダ)
社会主義のもでるが悪すぎたのでしょう、Torotskistで阿多私は今もそう考えています。哲学科美学専攻。
投稿情報: 高橋徹 | 2010.02.01 21:30