最近は各所でv4アドレススペース枯渇対策としてのNAT論議がかまびすしい。今週のDublinでのIETF72でも、 v6ops, softwires, behaveの各WG、Internet Area open meetingに加え、Technical Plenaryでも大きく取り上げられた。その中でも重要なポジションを担っているのが、われらが宮川隊長率いる、日本勢である。
World WideのInternet Communityにおいて、日本勢と言えば(と一般化するのは抵抗かあるが、ここでは本質ではないので置いておく)、熱心なIPv6を推進者と知られている。そしてそのIPv6の、アドレススペース拡張に次ぐ利点は「NAT不要」ということだ。その日本勢が今はNATを推進しているのだから、目を丸くしている人も多いのではないかと思う。"What an irony"、という言葉もちらほら聞いた。
この背後にあるのは、理想は理想として一旦おいておき、乗り越えなくてはならない現実の問題を、着実に乗り越えよう、という、プラグマティズムと「八百万の神」的精神だろうか。そういえば、本社のエンジニアを交えミーティングしていた時、その米国人がある文脈で"God knows"と言ったら、宮川さんは"No. Nobody knows"と言った。私は、「いずれにせよ誰にもわからないっていうことだから同じじゃない」と茶化したが、実は言わんとされていることは少しわかる。キリスト教的決定論と、仏教的色即是空の違いだ。
Plenaryでは、かつてIAB席に座っていたitojunさんの事が思い出されて、涙が出た。とにかく考えることべきことは山ほどある。この変遷の時代を、愉しみながら、乗り越えたい。
....ところで、そのNATにはあまり関係ないが、私は結婚後も旧姓を通称使用している。これがprivateなIDが公的な場に出る時にpublicなIDに変換される、という意味において、何だかNATに似ている。ホテルや飛行機にはパスポート名でチェックインするため、仕事の関係で、誰かが私をホテルから呼び出そうとしても、「そんな人はいません」と言われるだろう(hole punching不能)。予め連絡が来そうなことがわかっている時は、チェックインする時に、通称名も登録してもらう(static destination NAT)。
おかげで、私が何をしでかそうと、夫(守備範囲は違うが業界は少しオーヴァラップしているため、仕事上の共通の知人もいる)や子供に迷惑がかかることはほぼ無いであろう、という安心感がある。姓が違うためトラックされにくいのだ。(しかし、あまり無防備に慣れきっていてはいけない。気をつけましょう。これで急にIPv6でNAT無しになったら、心して、privacy保護に留意しなくてはならない。)
仕事のときに加え、音楽・演奏のときも、public name(旧姓)を使っている。音楽は、私にとっては私的領域を超えているし、仕事仲間と共演することもあるので、この方がよいと判断した。ただ、先日娘のヴァイオリンの発表会で、私は講師演奏と娘の伴奏という立場で出演したときに、親子なのに姓が違うことになり、ちょっと居心地の悪い思いをした。local折り返しのときはprivate spaceのままにすればよいのかもしれないけれど、何を以ってlocalとするかが結構難しくて...。
って何の話をしているのでしょう。失礼いたしました。
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