前エントリーのおまけ。版の選択はもう少しゆっくり考えることにするが、この際、カデンツァにちょっといたずらをしてしまおうかな。
今年は巳年なので、巳年ヴァージョン!!(日本人にしか通じないですね。いや、日本人でも気付かないかな..。アホですね。失礼しました!)
前エントリーのおまけ。版の選択はもう少しゆっくり考えることにするが、この際、カデンツァにちょっといたずらをしてしまおうかな。
今年は巳年なので、巳年ヴァージョン!!(日本人にしか通じないですね。いや、日本人でも気付かないかな..。アホですね。失礼しました!)
2013.01.07 カテゴリー: ゲーム, 芸術、音楽、演奏 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
チャイコフスキーの「ロココの主題による変奏曲(Op.33)」を弾く(かもしれない)ことになったが、悩ましい問題が一つある。版の問題だ。
どんな曲を弾く場合も、アーキテキュレーションの考え方一つとっても大分曲想が変わるため、版の選択は問題になる。でもこの曲の場合はアーティキュレーション云々の問題をはるかに越えている。チャイコフスキーがこの曲を捧げた親友でありチェリストであるフィッツェンハーゲンが、変奏の曲順を大幅に変更し、かつ終曲をカットし、コーダを書き替える、という大改造を行ったというのだ。(この辺は、Wikipediaに詳しく書かれている。)
当時出版社がその編曲版を出版したために、長らくこちらの版が標準版になっていた。ロストロポービッチ、ヨーヨーマなどの名演奏もこの版によるものである。これはこれで素晴らしい。物寂しげでどこか懐かしいmoll(短調)のヴァリエーションを後半に持って来て、その後一気に盛り上がってコーダを迎える。チェロを輝かしく聴かせるという演奏効果を考えても、若干冗長な感じをスリムにしているところも、編曲版はよくできているように感じる。いや、こちらの方が聴き覚えがあるため、親しみがあるだけなのかもしれない。
この曲を課題曲としているチャイコフスキーコンクールでは、第12回(2002年)から原典版を指定しているそうだから、これから勉強する若いチェリストは、原典版をさらうのだろう。やはり、作曲者の意図を忠実に再現するためには、原典版を選ぶべきだろうか。スティーヴン・イッサーリスは、結構強く、「編曲版はナンセンスでり、冒涜(sacrilege)」とまで言っている。
一方、実際の演奏会では、最近でもフィッツェンハーゲン版が演奏される機会もまだ多いようだ。昨年来日もしたタチアナ・ヴァリシエヴァの演奏もフィッツェンハーゲン版だ。その他もいろいろ検索したが、編曲版での演奏の方が多い様子である。確かに、作曲家の意図が一番であるが、演奏者にとっては演奏効果も重要な問題である。例えば、ショパンの「序奏と華麗なるポロネーズ(Op.3)」をオリジナル版で弾く人はあまりいない。オリジナル版ではピアノの輝かしさに対してチェロはオブリガード的であり、腕に覚えのあるチェリストにはそれでは物足りないため、演奏会では、フォイアマン版、ジャンドロン版などが取り上げられる。(私はこれらは弾けませんけれども。)
さて、原曲版か、編曲版か。私の廻りには結構原典主義の人も多いのだが、極端な原典主義はどうしても疑問に感じてしまう。原典版にだってどのみち記譜ミス、写譜ミスはあり得る。作曲者の意図が完全に譜面に表れているか、と言えば、そうではないこともある。また、優れた演奏家が曲を深く研究して校訂したことを、そんなに無碍に否定する必要も無いだろう、という気もする。勿論、校訂はあくまでも、ある第三者によるある前提に基づいた解釈に過ぎないので、それを過信するのは、当然よいことではない。要するに、絶対に正しいというものは無い。その場その場で判断するしかない。
うーん、迷う。両方弾けるようにすればよいのだろうが、ソロ曲なので暗譜しなくてはならない。複数の版が頭にあったら絶対混乱するから、やはり早いうちの選択が必要である。
まぁでも一番の問題は、この難曲を手の内に入れられるか、ということなので、まずは基礎をきちんとさらうことに専念しよう。。。
2013.01.03 カテゴリー: 芸術、音楽、演奏 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
神々しい、宇宙的、とでも形容するしか無いような音楽がある。
例えば、バッハのシャコンヌ、特にあの、突如D-durになった後の分散和音。モーツァルトのジュピター、シューベルトのピアノソナタ21番、ベートーヴェンのワルトシュタイン...。
そこには、人知を越え、さらには普遍性とかいうことさえも越えてしまうような何かがある。
人間ってすごい。世界は美しい。どんなにつらいことがあっても、これらの音楽があるだけで、この世に生を受けたことに感謝する気持ちになる。
地動説、万有引力、相対性理論など、いかなるすばらしい科学史上の功績も、ガリレオ、ニュートン、アインシュタインがこの世に生まれなかったとしても、きっと誰かが発見していただろう。しかし、シューベルトの音楽はシューベルトがいなかったら、存在しなかった。
だから、一人の人間が一生のうちになし得ること、という尺度で考えたら、芸術家が一番すごいのではないか。
で、何が言いたいか、というと、何でも市場原理に絡めとって芸術を消費の対象にする風潮はけしからん、ということでもなく(多少はあるかもしれないが)、保護してほしいということでもなく、どうせ生きるのならアーティスティックに生きよう、ということなんです。
アーティスティックに生きよう。
2012.08.05 カテゴリー: 芸術、音楽、演奏 | 個別ページ | コメント (2) | トラックバック (0)
長年技術者をしていると,「えー,そんなアホな」という場面に遭遇することがある.そのような場合,「アホですか」とは言わずに,なんでそのような事態に立ち至ったかをまずは理解するようにしなくてはならない.自分の感覚からすればどんなにばかげているように見えても,それは単に見方・捉え方の違いに過ぎない,ということがよくあるからだ.
私も,「アホですか」と言われた(いや,実際にそう言われた訳ではなくても,あからさまにそういう雰囲気になった)ことは何度もある.
大分昔,KAME(BSD系IPv6 protocol stack)の開発者の一人に「何故IPv6に下位互換性を持たせなかったんですか?」と訊いたら,「へ?(アホですか)」,と呆れられ絶句された.「だってヘッダのアドレススペースが足りないんだよ?!いくつか互換性を提供するための技術はあるが(IPv4 mapped addressとかNAT-PTとか(当時))根本解決にはならない.そもそもNATが蔓延しend-to-end原理が崩壊したIPv4なんかさっさとやめて,ネットワークを再構築した方がよい.」当時はこういう論調だった.
一方, これは2年前,Systems Engineeringの大家で,現在はNUS(シンガポール国立大学)でSystem Thinking, Critical Thinkingを教えられているJoseph Kasser教授に,インターネットにおいてIPv6がなかなか普及しない話をしたとき,「全く新たな価値をもたらすものでない限り,下位互換性を持たせなければ普及しないのは当然.(アホですか)」と言われ,ここでもそうですよねと引き下がらざるを得なかった.
立場,見方,捉え方,パースペクティヴの違いにより,そしてその時の状況により,現象の捉え方がこんなにも異なるのだ.
人間は,成長するに従い,ある見方・捉え方を身につけて行く.しかしそれは,同じコミュニティに属するごく親しい間柄でも,人によって異なることが多いし,ましてや広く普遍的なパースペクティヴというものは存在し難い.だから,何かを他者と一緒に成し遂げようとする場合は,できるだけ理にかなった仮説を提示し,それについて,言葉をつくし,場を共有して,相互理解を醸成する必要がある.これは,相手が一人ないし少数であれば対話であり,多数の場合は,このことこそが「リーダーシップ」というものなのだろう.
(おまけ)
私は職業柄0から数え始める習性がついてしまっているが,一般常識的には1から数えるのが普通だろう.そのため音楽の合奏練習で困ることがある.小節番号や練習番号がついている場合は問題ないのだが,「2番かっこの小節から2小節目」とか言われるとだめだ.脳が勝手に「2番かっこの小節」を0として,そこから1,2と数え,都合3小節目から弾き始めてしまう.先日も,うまくいかず雰囲気がぴりぴりしているときにやってしまって,「アホですか」状態になった.これも捉え方の違いではないかと思うが,勿論言い訳はできない.
一方,音程の表し方(ドとレは2度,ドとミは3度とかいうやつ)で,「同音なのに1度というのはおかしいのではないか.ドとドだったら0度,ドとレで1度なのでは」,という人がいるが,音程は,「数」ではなくて「比」なので,同音は1度でよいのです.
2012.03.14 カテゴリー: 仕事、社会、技術, 芸術、音楽、演奏 | 個別ページ | コメント (1) | トラックバック (0)
年末の端境期に、ピアノ調律(年1回)と、チェロの調整(こちらは不定期だが年に1-2回)を行った。
音は純粋な物理現象だから、その調整にはもっと科学的・合理的な方法があってもよさそうなものだが、この現代においても、楽器の製作・調整は完全な属人技である。特に弦楽器なんて木に4本の弦が張ってあるだけのシンプルな構造なのに、何故こんなにも奥が深いのか。複雑多様な外的要因に対応するためには、相応の複雑多様性が必要(アシュビーの法則)なので、楽器の構造がシンプルであっても、その分それを扱う者には複雑多様性が求められるのかな。
このところずっと、発音を良くしたい、音の立ち上がりをシャープにしたいと思い、そのために、張りの強めの(そして値段も高めの...ラーセン-ソリストとか、エヴァ-ソリストとか...)弦を張り、弓の毛で弦をしっかり捉えようと右手をいろいろ工夫していたが、なかなか思うように行かなかった。そんなとき、弦楽器製作者の重野汎さんをご紹介戴いた。
初めて楽器を持って工房にお邪魔したときは、いきなり、「ちょっと弾いてみてください」と言われ、戸惑った。おずおず弾くのを腕組みして聴いていた重野さんは、楽器がもっと自然に響くようにと、駒と魂柱を作り直して下さった。弦についても、「最近は張りの強い弦が出ているけれども、もっと柔らかめな弦の方がよいのではないか。AD線はヤーガー、GC線はスピロコアでもタングステンでなく普通のクロームがよい。」重野さんの持論は、「全く無理なことをせずに、弓を自然に動かすだけで、音は立ち上がってくるし、響く」、というもので、彼のセッティングのおかげで、私の楽器も、そして弾き方も確かに変わった。(弾き方の方はまだまだだけれども。)「楽器が持つ方向、調整者、演奏者の求める方向の3つが全て同じ方向に向かったときに、よい音が出せる」とも仰る。音という自然現象に対峙する深い洞察、飽くことない音の追求により培われた技術と理論に、畏敬の念を覚える。
下記は、その他、具体的な諸注意。
弾き手の動作が、楽器本来が持つ自然な発音を邪魔する要因になる、ということを改めて認識する。江口さんがよく仰る「楽器が喜んでる・喜んでない」というのも、そういうことなんだな。
2012.01.02 カテゴリー: 芸術、音楽、演奏 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
正門憲也作曲「管弦楽のための舟歌」を演奏することになった。(東京文化会館の50周年記念イヴェント。)都民響にとっては、60周年記念委嘱初演に続き再び、私にとっては、2009年に演奏した「弦楽のための舟歌第一番」に続き再び、である。「弦楽のための~」は山形県最上川舟歌を題材にしているが、「管弦楽のための~」は、日本最古の運河、埼玉県見沼通船堀の舟歌だそうだ。前者は光と水しぶきの描写がフランス音楽のようだったが、後者の方はもう少し日本的かな。雅楽のような響き。
同時代の音楽を演奏する、ということについては、多くの複雑な問題が(感情的なものまでも含めて)入り乱れる。(1)耳が馴れていないという問題、2)時の試練を経ていない問題、3)妬み・嫉み・やっかみ、4)その他もろもろ...)しかし、作曲家と演奏家の間に信頼関係があれば、即ち、作曲家が演奏家のことを想い、演奏家が作曲家に対して限りない尊敬と信頼を寄せるような場合は、その音を紡ぐことがこの上ない幸せになる。
正門先生の音楽的才覚と、脳内にある曲のイメージを、そのままコピーできたらどんなにかよいだろう、と思う。しかしそれはできないので、書き下ろされた譜面と指揮、そして若干の言葉による補足(蛇足?)を頼りに音楽をつくる。しかし、相変わらずの正門節。そしてリズム地獄。
リズム地獄には、変拍子(小節のたびに拍数が異なるためものすごい集中力が必要)、シンコペーション(本来弱拍の位置に強拍が来るため、気合をいれないと、譜面の拍子と実際の感覚に乖離が生じてくる)等いろいろあるが、それらはまだ全然よい方である。正門先生の作品には、譜面面は然程複雑でないのにリズム割りが各パートで異なる、というポリリズムが多用されており、これが非常に厄介。しかも特に合奏初期の状態では、他パートが正しいかどうかもわからないため、音をどこにどう入れればよいか、まったく渾沌としてしまう。2×3=1.5×4(6拍子を二分音符3つでカウントしているところに付点四分を4つ入れる)、2x3x2=4x3(同6拍子の小節2連を大きな3拍子のヘミオラで。)いやこう書くとシンプルだが、実際は、さらにその1拍が3連、5連、6連や、3:1(いわゆる"タッカ"のリズム)などになっており、かつ拍の頭が休符だったりするので、ついて行くのが難儀である。ぐげー。先生は、「ここは多少ずれてもよい」、とか仰るが、一度ずれてない状態がどういう状態かを理解しないことには、どのくらいずれててよいのかもわからない。先生は頭に描いた音が出なくて、さぞもどかしいことだろう。同時に、渾沌を愉しんでいるようにも見える。とにもかくにも、作曲家とともに音を紡ぐことは、一期一会である。そして出てくる響きは、目前のリズム地獄とは別次元ののもの。美しい(うまくいけば)。
今回は、さらにアンコールとして、20年前の若かりし日の作品という「小組曲」から一楽章「直線的な踊り」も演奏する。(ネタバレか..、しかし読者数が限られているので大丈夫でしょう....。)こちらは、正門節全開の舟歌に比べると、習作的なところがあるだろうか。バルトーク、伊福部、キラールなどが想起される。しかし、すごくかっこいい。響きも圧巻。私には、「火の鳥(ストラヴィンスキー)」の凶悪な魔王の踊りとオーヴァラップして聴こえて仕方ない。夢にまで出てきて、まいった。
もしかすると、弦楽版と、管弦楽版の両方の正門舟歌を弾いたのは私が最初かもしれない。これは後世に自慢できるかな?いろいろな場所で先生のご指導を受けることができたため、脳内コピーはできないものの、コンテクストの共有度が高まり、大体言われることはすごくよくわかるようになった。後はできるだけよい演奏で再現したい。11月6日、13:00から、東京文化会館大ホール。もしよろしければいらしてください。なお、前プロはハイドンの94番交響曲「びっくり」。「清冽さ」が両者の共通点だが、構成の多様性は対極にある。多様性の高い構成は、まとまりにくいが、擾乱や不確定な事故に対しては耐性が強い、ということもよくわかる。:)
P.S.1 脳内コピー、近い将来*ある程度は*できるようになるのではないか、と考えている。(真剣に。仕事モード。)
P.S.2 なお、この後も11月19日(土)には奥多摩の水と緑のふれあい館におけるコンサート(弦楽5重奏+Ob: チラシ(高校生になる娘が作ってくれた))、12月10日(土)の特別演奏会、と本番が続きます。師匠からの厳しい課題もいくつか。さらわなくては。
2011.11.04 カテゴリー: 芸術、音楽、演奏 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
先日高校の同窓会があった。最初はあまり気乗りしなかった。今は時間がないし懐古の気分ではないのに、共通の話題といったら昔話くらいしかないではないか。しかし行ってみると、昔話はあまりしなかった。高校という時代を共にした仲間は、懐かしく、親しく、気心が知れているのだが、一方で、友人のことなんて何ひとつわかっていなかったということに気づかされた。考えてみれば当然かもしれない。何を専攻し、何を職業とする、など、自己を確立して行くのは、多くの場合高校卒業後のことなのだ。(私なんて、学生時代は終始ぼーーっとしていて、物心ついたのはつい最近(?!)だし。)
一人の級友と話した。最近本を出版したと言う。「わぁ、すごいね。どんな本?」と訊いても、あまりはっきり答えてくれない。昔からあまり自己アピールする人ではなかった。そういうところは変わらない。でも、後からその小説を送ってくれた。
「月光川の魚研究会」。なんだかよくわからないタイトルだ。でも、カヴァーの写真がとてもきれい。実は、ここ暫く時間が取れそうにないので夏休みにでも読もうと思ったのだが、手に取ったらどんどん惹きこまれ、一気に最後まで読んでしまった。
「月光川の魚研究会」とは、バーの名前らしい。そこにくるお客と迎えるバーテンダーにより儚く切ないものがたりが語られる。どこか懐かしい感じのするリズムのある文章、息を飲むほどうつくしい写真、そして音とともに紡がれる。(書物なのに、ところどころに挿入される音楽が心憎いほど、印象的な演出をしている。)
ものがたりを紡ぐ。...何気ない日常も、悲しい事件も、ちょっとしたすれ違いも、上質の語り手にかかると、こんなにも切なく心を動かす。私はこんなにすてきに物語を書くことはできないけれど、でも、ある事象とある事象をつなぎ、意味や流れを持たせる、関係性の有無を吟味する、ということは、常に行っている。だから、土台となる教養やさまざまな視点、そして控えめかもしれないけれど確固たる芯を以って語られるものがたりに、深く感動する。人間はなぜものがたりを紡ぐのか。
たぶん、ものがたりを紡ぐということは、生きる、ということと、同じことなのではないだろうか。よく生きる、ということは、自分の紡ぐものがたりを少しでもよいものにする、ということと等価である。基礎的な学問を身につける、仕事で周囲や社会の役に立つ、楽器を修行して少しでもよい音を出す、家庭の責任も果たす、などは、偏に、ものがたりをよくするための奮闘、なのかもしれない。
2011.06.27 カテゴリー: 芸術、音楽、演奏 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
トップレヴェルの演奏家は、具体的な奏法について語らない。音楽も当然物理的運動であり、例えば弦楽器であれば、音程、弓にかける圧力(重み)、弓のスピード、弾く位置などで音色が決まる。だから、一流の演奏家が、「この曲のこの部分は、このくらいの弓圧で、弓幅は何cmくらい使って、指板寄りを弾く」、とかいうことを語ってくれたらどんなにか参考になるだろう、と思い、機会があるたびに調べていたが、そのような言説に遭遇できたことは一度としてない。最近ではプロの演奏家も音大生も、ブログやSNSで文章を山ほど書いているのに、である。稀に奏法に関する分析的な言説を発見することがあるが、評論家やアマチュアのものが多い。(例外はあると思う。)
演奏家は忙しくてそんな暇はないのか、もしくは分析や言語化が苦手なのだろうか、などと考えたこともあったが、そうではなかった。演奏家は、自分の身体を使って、明示的な教師または内なるイメージに従い、環境との相互作用をしながら、高度な「内部モデル」を獲得してきており、その「内部モデル」により、状況を予測・感知し適切な音を出す。しかも、その内部モデルは小脳にある、ということなので、意識は(そのままでは)関与できない。演奏家が(そのままでは)奏法を言語化できないのは当然である。一方、文章にする・言語化できる、というのは、大脳で理解している、ということであり、逆にそれでは、分析することができても、(そのままでは)演奏をすることはできない。
「内部モデル」は、生体システムの外にある環境モデルを内在化する、という点で、マイケル・ポランニーの「暗黙知」に完全に符合する。ポランニーに拠れば、「知」とは知覚の形成であり、実践的な知識と理論的知識の暗黙的統合である(暗黙的統合とは、「それが何かを特定できないまま統合している」、というゲシュタルト理論に由来する)。小脳の「内部モデル」は、40年余を経て、ポランニーの「暗黙知」を実証したことになるのではないだろうか。
また、認知の形成という点で、「アフォーダンス」理論との相対化もしたくなる。通常生体システムは、探索、試行、練習、努力、といったフィードバック誤差学習の繰り返しにより「内部モデル」を獲得するが、アフォーダンスは、環境の側が、生体による「内部モデル」の獲得をし易くするための特徴を持つ、ということになるだろうか。ポランニーの文脈では、主体の「より高位への志向」「(対象に対する)コミットメント」が必要なのに対し、アフォーダンスは、未熟練な主体に対しても効用があるため、人工物のデザイン(思わず身を預たくなるソファ、思わず押したくなるボタンなど)には有用や概念なのだろう。そういえば、小学校で使われるピアニカという楽器はアフォーダンス度が高いかもしれない。
「トップレヴェルの演奏家はなぜ具体的な奏法について語らないか。」この最初の問いに対して、ポランニーの言葉を引用したいと思う。「包括的存在を構成する個々の諸要素を事細かに吟味すれば、個々の諸要素の意味は拭い取られ、包括的存在についての概念は破壊されてしまう。」(マイケル・ポランニー、高橋勇夫訳、「暗黙知の次元」ちくま学芸文庫)
2010.12.26 カテゴリー: 芸術、音楽、演奏 | 個別ページ | コメント (2) | トラックバック (0)
多様化・複雑化する○○。現代においては、○○には何でも当てはまるだろう。多様化・複雑化する { 社会 | 情報システム | 金融システム | 国際関係 | 対人関係 | コミュニケーション | 価値観....}。
この多様化、複雑化により、当然問題もたくさん起こっているのだが、驚くべきなのは、その割には単なる無秩序状態に陥るのではなく、新たな、たぶんより高度な秩序が、形成されて行く、ということだ。問題は山積み・噴出状態ではあれど、それでも社会は廻っているしインターネットは動いている。(この辺を自分なりに解き明かしたくて、今ちょっと勉強中。)
音楽芸術の世界でも同じような進化変遷をしている。今では古典として残っている名曲はほぼ全て、当時としては斬新な試みを行っており、それまでの秩序を少しずつ破壊しながら、新たな地平を切り拓いて行く。
弦楽合奏の次の演奏会で、我らが正門憲也先生の「弦楽のための舟歌」を取り上げる。私にとっては、初めて正門先生の曲に取り組むことになるが、これがもう本当にすごい。ひたすら涙。九の和音の連続、複合和音、複調...、いや和声の方はそれでもあまり問題がない(というより、かなり綺麗)。泣くほど苦労するのは各声部の流れとリズムである。当然ポリフォニー、時々ヘテロフォニーあり(微妙な各声部のずれ)、そしてポリリズム、しかも、各声部のリズムが既にかなり複雑なのに、各声部で違うリズムを刻む。さらに、追い打ちのように出てくるヘミオラ。しかも逆ヘミオラ。(逆ヘミオラという用語があるかどうかわからないけれど、例えば通常3拍の小節を2つまとめて計6拍と考え、そこを2拍ずつ大きな3拍子にする(足して割る)ことをヘミオラと言うと思いますが、正門先生の曲では、ゆっくりの3拍の中に4つ入れたり2つ入れたりする(割って足す)。ところで私、「ヘミオラ萌え」と自称するほどヘミオラ好きなんですけど、これがぴったり合わないと、欲求不満によるストレスになる。) ああ、多様性極まれり!
これを指揮者なしでやろう、というのだから無謀である。正門先生は、練習の時は弾きながら小節番号や何拍目かを叫んでくださるが、本番ではそうも行くまい。たった15分8分の曲だけれども、マーラーのシンフォニーを全楽章弾いたくらい、神経を消耗する。実際、これまで何か月も取り組んできて、未だに事故無く最後まで到達したことがない!!まさに、問題山積み・噴出状態。
でもでも、これが、ぴったりはまると、まさに高度な秩序が形成される状態になって、とても美しい曲です。現代の作曲では、斬新な試みを行うがために、無調無機質で不快な音を書いたり、奇を衒って変な奏法を使ってみたり、ということがあるが、この曲は違う。それぞれが渾沌の極致なのに全体としては素朴な民謡(舟歌)のアンソロジーだ。フランス音楽の響きのような和声なので、私にはロワール川に日本の小舟がたゆたっているような光景が目に浮かぶ。船頭さんが気持ちよさそうに謡う。エンヤトットという掛け声のようなリズムも聞こえてくる。川面に光があたってきらきらしている。水しぶきが舞う。時々岩に当って舟ががつっと音を立てる...。
本番まであと一週間もなく、先日のリハーサルでもまだ事故が起こっている。こんな演奏では先生の顔に泥を塗ってしまうのではないか、という懸念もある。何とか少しでも高度な秩序の形成ができるように、この多様化・複雑化・渾沌に諦めずに取り組みたい。
P.S. ところで、本人によると「チキンラーメンのテーマ」(?!)が出てくるらしいんですけれど、どこだか特定できていない。というか、チキンラーメンのテーマってどんなのでしたっけ?いずれにせよ、「こんな音楽を書くなんて一体どういう頭の構造なんだ(尊敬)」、と思っているところに「チキンラーメン」とか言われると、そのギャップがまたおかしい。
P.S.2 現代の音楽って言葉にするのが難しい、と思ってたら、たまたま今読んでいる本にこう書いてあった。「現代という時代は自分を表現する古典をもっていない。」うーん、当然と言えば当然だけれども深い。(「現代倫理学入門」、加藤尚武、講談社学術文庫)
2009.04.27 カテゴリー: 芸術、音楽、演奏 | 個別ページ | コメント (1) | トラックバック (0)
都響のパンフレットの楽員紹介のページに、各メンバーの写真と簡単なプロフィールが載っている。プロフィールの項目の一つに「音楽家としてのモットー」というのがあって、これがとても興味深い。
モットー(Motto)って、たぶん元は「大切な言葉」というような意味だろうか。転じて、信条とか行動指針とかを表すのだけれど、同じオケに所属する音楽仲間・同僚であってももう千差万別である。「感性や感覚を磨く」、「日々驚きを求めて」などの感性派、「明るく」「楽しく」とか「健康第一」とかいうヘルシー派、「人に楽しんでもらう」「ひとつひとつの演奏会を大切にする」などのサーヴィス派、「誠実に」「真摯に」「常に原点を忘れない」「一生学習・練習」というストイック派、「自然に」「シンプルに」「素直に」といったナチュラル志向、などなどなどなど。「音楽家としての」というよりは、それを超えた、その人の人間としての生き様のようなものを感じる。
ぶっとんだのは、何てったってソロコンサートマスターの矢部達哉さん。一言、「脱力」。もしインタヴュアーが意気込んで「あなたのモットーは?」と訊いたとして、こう答えられたら、インタヴュアーの方が脱力してしまうのではないか。いやしかし、これはすごくよくわかる。少しでも余計な力が入ると音は微妙に硬くなるため、豊かな音、深い密度の濃い音を出したい時こそ、脱力は重要。でも現実にはしっかり弦を抑えたり、弓をholdしてかつ制御しなくてはならなくて、これには勿論必要最少限の力が必要だ。だから演奏家にとって脱力は永遠の課題である。しかし、矢部さん程の方でも常に心がけておられることだということ、しかも「音楽家としてのモットー」とまで言ってしまうほど大切なことなのだ、ということに、何とも深い深淵を見たような気がする。
コンマスの山本友重さんのもすごい。「絶対的透明な響きを目指す」。「絶対的透明」ってあるのでしょうか?透明な響きとは?絶対的透明って??うーん。うーん。
さて、親愛なるチェロパートのメンバーはどうだろう。古川展生さん、「一匹狼」。ひぇー。そうですか。そうだったのか。そして我が尊敬する師匠、江口心一さん、「夢ある音を求めて...。」そういえば江口先生は、勿論具体的なアドヴァイスもして下さるが、時々夢の世界からの伝言のようなことを口走る。「うーん、楽器が喜んでない!」 「楽器を弾こうとするのではなくて!」
私の「音楽家としてのモットー」を訊かれたらどう答えるかな。取敢えず今は「仮想と物理現象とのよりよいマッピング」かな。あ、これは仕事でも結構当てはまるかも。
2009.02.21 カテゴリー: 芸術、音楽、演奏 | 個別ページ | コメント (2) | トラックバック (0)
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